
イラスト協力: みやわき心太郎先生
| | 最初の段階を「尋牛」と言います。
これは、自分の運命のまま、つまり何も自覚せずに、与えられた条件のまま生きていることに気付いた状態を意味します。牧童がその日その日を漫然と暮らしていて、ふと気付くと、牛がいなくなっていたわけです。
基本的に、生きていくことでカルマは解消されます。カルマとは業(ごう)であり、それは抱え込んだ欲望を意味するのです。そして、欲望は、それに飽きるくらい十分堪能したらこだわる必要を失い、解消されます。カルマを解消することとは、欲によって成り立っている生命場の鎖を解き放ち、自己を拡張して宇宙の真理と一致することであり、それを仏教では「仏」と呼び、その実現に向けて切磋琢磨するわけです。
しかし、生きていく過程で、次々と欲望がわき起こり、ひとつのカルマを解消する途中で、別のカルマを多数抱えるが故に、このカルマ解消の旅路は非常に長い時を必要とします。
すこしでもその道筋を短縮することで、より早く多くの者が高いレベルへと至るようであれば、この世界の存在意義がより早く次のテーマへと移行するものと考えられるのです。
それゆえ、優れた師によって、または、整理された段階的な修行によって、あるいは、優れた地域社会の場において、個々がレベルアップしていくのにかかる時間を如何に短縮するかが、修行の意味となっています。
従って、ここで、牛を尋ねるとは、この短縮の道、つまり、なすがままにあることを放りだし、早くその道を歩もうと決意したことになるのです。
低いレベルでの自然ではなく、高い意識での自然を求める、その決意を示すものです。ただあるがままに生きるのでなく、「あるがまま」に向けての積極的アプローチとでも申しましょうか。
この瞬間が最初の自己否定、つまり、何とはなしに生きていた今までの自分からの決別を意味するのです。 |